新しい年を迎えるたびに、机の引き出しの奥から「今年こそやること」のメモが出てくることがある。ジムに通う、家計簿をつける、早起きをする——そうした「やること」の誓いは、たいてい三日と経たずに埃をかぶる。相場と向き合う日々にも、これによく似た風景がある。値動きを追う画面を開くたびに、あれも試そう、これも学ぼうと「やること」ばかりが積み上がっていく。だが本当に心を守ってくれるのは、案外「やること」の反対、すなわち「やらないこと」を先に決めておくことなのかもしれない。黄金の海図の航海術も、実はこの逆転の発想から始まっている。
ルールを決める前に、まず「やらないこと」を決める
物事を成功させる方法を考えるとき、人はまず「何をすればうまくいくか」を思い浮かべる。しかし十九世紀ドイツの数学者カール・ヤコビは、これを逆転させよと説いた。「invert, always invert(逆にせよ、常に逆にせよ)」——難しい問題に直面したら、正攻法で答えを探す前に、まず「どうすれば確実に失敗するか」を考え、それを一つずつ避けていけばよい、という思考の技法である。この発想は、ある投資家が好んで用いたことでも広く知られているが、思考法そのものの起源は投資の世界にあるわけではなく、数学者の逆転の発想にある。
投資という営みは、選択肢が果てしなく広がっている世界だ。何を学び、何を試し、何を続けるべきか——「やること」を数え上げていけばきりがない。だからこそ、先に「やらないこと」を決めてしまう方が、案外近道になる。何を選ぶかを毎回悩む代わりに、何を選ばないかをあらかじめ決めておけば、悩む回数そのものが減っていくからだ。
「やらないこと」がなぜ意志力を守るのか
心理学の世界には、選択肢が多すぎることそのものが人を疲れさせる、という知見がある。2000年に発表されたアイエンガーとレッパーによる研究は、試食コーナーに並べる商品の数を大きく変えた場合とで、購入に至る割合や満足度が変わることを示した——選択肢が多いほど、人は決めることそのものに疲れ、結局選べなくなったり、選んだあとの満足度が下がったりするというのである。
投資に向き合う一日にも、無数の小さな選択がある。この記事を読むか読まないか、この数字に反応するかしないか。その一つひとつを律儀に吟味していては、心はいくらあっても足りない。「やらないこと」をあらかじめ決めておくのは、その都度の選択そのものを手放す作業でもある。意志の力を節約するために事前に決めごとをしておく、という考え方は行動経済学でも語られているが、意志力そのものが目に見えて消耗するかどうかについては研究者の間でも意見が分かれているとされ、断定はできない。それでも、事前に決めておいた「やらないこと」に助けられた経験がある人は多いだろう。
このような、あらかじめ自分を縛っておく工夫を、事前コミットメントと呼ぶ。その原型として語り継がれるのが、ホメロスの叙事詩『オデュッセイア』に登場する船乗りユリシーズ(オデュッセウス)の逸話である。彼はセイレーンの美しい歌声に船を沈められることを恐れ、その海域に近づく前に、自らの体を船のマストに縄で縛りつけさせた。歌声を聞いてしまってからでは、もう判断力は残っていない。だからこそ、冷静な今のうちに、未来の自分の手足を縛っておいたのである。
船乗りが出航前に確認する「しないこと」の作法
黄金の海図の老船長も、出航前に欠かさず確かめることがあるという。それは「今日は何をするか」ではなく、「今日は何をしないか」の確認だという。
『天候がはっきりせぬ日に、無理に纜を解かぬ。一人の見張りの声だけで舵を切らぬ。荒れた噂を聞いたその場で、進路を変えぬ』
船長はそう語る。これらはすべて、出航してからでは判断が鈍る場面を、あらかじめ見越して決めてある約束事だ。嵐の中では、誰しも冷静ではいられない。だからこそ、凪の日に、静かな甲板の上で、あらかじめ縛っておく。マストに体を縛りつけたユリシーズと同じように、船長もまた、荒れる海を前にして、自分自身との約束を結んでおくのである。
心を守る、やらないことリストの作り方
では、投資家にとっての「やらないことリスト」とは、具体的にどのようなものになるだろうか。ここで大切なのは、それが特定の売買の技法や資金の配分そのものを定めるものではない、ということだ。何をどう扱うかという技術の話ではなく、心をどう守るかという習慣の話である。
たとえば、こういう項目が考えられる。暴落を伝える報道を見た、その場では何も判断しない。焦りや不安といった己の感情に名前をつけずに、感情だけで動かない。たった一人の声、たった一つの情報だけを鵜呑みにして決めない。一日に何度も画面を開いて、心を波立たせない。
黄金の海図の魔物図鑑に登場する数々の心の魔物たちも、多くはこうした「気づかぬうちに動かされてしまう」瞬間に忍び寄ってくる。「やらないこと」を先に決めておくというのは、いわば魔物が近づく前に、あらかじめ扉に鍵をかけておくようなものだ。何が起きても慌てず、決めてあることをただなぞればよい——その安心感こそが、リストの本当の効能なのかもしれない。
リストは一度決めたら見ない――守り抜く力そのものが習慣になる
最後にひとつ、大切な作法がある。それは、一度決めた「やらないこと」を、その都度見直さないということだ。
ユリシーズは、セイレーンの島に近づくたびに、縄をきつく結び直したわけではない。縛りつけるのは、航海の前にただ一度でよい。もし歌声を聞くたびに「本当にこのままでよいか」と縄をほどきかけていたら、彼はとうに海に身を投げていただろう。決めごとというのは、決めた瞬間の自分を、決めたあとの自分がいちいち疑わないことによって、はじめて力を持つ。
決めたことを、日々の揺れる気分でいちいち検証し直すのは、実はリストを持たないのと同じことである。出航前の確認を終えれば、老船長は二度とその内容を口にしないという。何をしないかを一度だけ静かに決め、あとはただ、その約束を守って航海を続けるだけでよい。決めたことを最後まで守り抜く、その力こそが、長く海と付き合っていくための土台になる。